スーザンさんはイルカと他の動物との聞に知能程度の断絶はないといい、ブルースケイト氏は「ある」として「人間同士の殺し合いがいけないのと同じ意味でイルカを殺すのは許せない」という。
「ウシの知能はイヌくらいではないかしとも。
それでは、断絶があるにせよないにせよ、イルカより知能程度が低ければなぜ殺してもいいことになるのか。
ウシはなぜ殺されるのか。
「知能が低いことによって殺しの対象をまぬがれない理由」はかれらの口から出てこなかった。
またウシは「家畜としてコントロールできるので殺してもいい」それなら、イルカも家畜にすれば殺していいのか。
「イルカを家畜にするなんて、恥ずべき〈悲しい、困った)ことだ」ここにくると論理よりも感情になってしまう。
そして感情はたぶんに、各民族の文化・歴史と深い根で結びつく。
イルカやクジラは、西欧文化圏の人々にとっては古代ギリシャ・ローマ時代から神話や民話、あるいは聖書などで親しんできた動物だ。
全く別のいい例はインドのウシだろう。
インド人にとってウシは聖なる動物だ。
食うために牧場に囲って育てて殺すなどとんでもい。
ここでまた別の問題が発生する。
たしかに「文化・歴史」の違いは大きい。
しかし、遠く日本にやってきて「イルカを殺すな」・と漁網を切断するのはアメリカ人であり、インド人は決して北海道の牧場を襲ってウシを解放などしないのである。
で、もしインド人がアメリカ西部の牧場へ行ってウシの解放運動をやったら?「それは自由ですから、やればいいでしょう」とスーザンさん。
いや、運動だけじゃなくて、牧場のサクを破暗唱してウシを追い散らしたら?この回答もまた聞くことはできなかったが、アメリカ西部や南部の風土をハダで体験した日本人であれば、答えはわかっている。
牧場のサクを破壊してウシを逃がしたインド人は、まず確実に(リンチで)殺されるであろう。
つまり、日本国内までやってきてイルカの漁網を切るのはアメリカ人であって、インド人でもベトナム人でもドイツ人でもフランス人でもないところに、ひとつの問題がある。
当のアメリカ人たちケイト被告をはじめ実に善意にあふれたこの運動家たちも、みずからの「ものの考え方」の中に、アメリカ的覇権主義(政治的・軍事的・宗教的・文化的)がしみこんでしまっていることには、なかなか気づかない。
太陽光発電の利用価値をご存知ですか?太陽光発電で明るい雰囲気を演出しましょう。
